58654(8620形58654号)

大正11年11月18日に日立製作所笠戸工場で製造されました。
ハチロク形としては435番目の製造です


12.26長崎(旧浦上口)に新製配置され、一時期名古屋に貸し出しがあったものの(大正14.12.25)、
その後若松(大正15.2.3)、吉松(同年9.30)で大正期を過ごしました。

昭和7年11.28鹿児島に転属され、鹿児島線、日豊線の優等列車牽引に赴き、
昭和14年11.4豊後森で久大線、昭和18年2.26に鳥栖で鹿児島線、長崎線で使用され、
昭和24年6.21、西唐津に在籍し、唐津線の旅客運用で著しく定着するようになりました。

昭和36年4月には、お召し列車牽引の任務にも就いています
昭和39年3.20に再び若松に戻り、香月・室木線(現在、廃線)で使用されたのち、
昭和43年、最後の勤務地人吉に移り、湯前線(現、くま川鉄道)の貨物運用に赴きます。

そして、昭和50年3.9引退後、3月31日廃車となり、
肥薩線の人吉・矢岳駅にD51 170とともに保存されました。

その間の走行キロは334万キロ。これは地球の周りを約84周回ったことになります


そして、昭和62年4月JR九州発足の時、蒸機運転復活が検討され、
58654が白羽の矢に立ったのですが、復帰運転区間が肥薩線ではなく豊肥線である事と、
人吉市蒸気機関車館・名誉館長さんの「深い思い入れ」が強く、一時期難色を示しました

そこでJR側は条件として、年に数回必ず人吉に里帰り運転させることを条件に出し、
復元が実現できるようになりました。

そして、昭和63年1月人吉市矢岳から運び出され、
7月2日迄小倉工場で復元され、肥薩線での試運転を重ね、
8月22.23日「人吉号」として人吉→矢岳→吉松と、里帰りしました。


そして、昭和63年8月28日「SLあそBOY」として阿蘇を走ることになりました。
58654は小倉工場式除煙盤(通称−門デフ)を用いてますが、
廃車時までは69600号機から流用した、大きめの門デフを付けていました。
ナンバープレートは、ローマン書体の形式入りを採用してます。
実は復元当初、緑に塗られていたらしいのですが、すぐ黒に塗り替えられたとか。
(蒸機時代、熊本機関区の所属機は緑が伝統だったらしい)

区名札は、九州地区独自の砲金製です。

煙突は、廃車時はパイプ式にされていて、復元後
〜平成4年までは化粧型煙突を採用していましたが、
現在はダイアモンドスタック形になっています
車体は平成4年〜平成11年(1999年)まで、
一時期深緑色に塗られていましたが、(左)
平成12年(2000年)からは元通り、
黒に塗られています。(右)


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